グッドウィルハンティング
こんにちは。
そろそろというかやっと肌寒い日が訪れてきていますね。
さて、また20数年ぶりに「グッドウィルハンディング」を見ました。
なぜ今みようと思ったのか?
ツタヤをウロウロして何見ようか迷っていたら「90年代の見るべき映画」的な特集の棚があってそこにあったので、、、とにかくなんかしっとりと20代の自分に語り掛けてくれた作品で「俺が朝お前を迎えに行くとき・・・」のベンアフレックのあのセリフとラストシーンが特に印象に残っていたのですが、今回も全くその通りでしたね。
でも、20代で初めて見たころには、ロビンウイリアムはまだこの世にいて素晴らしい演技を世界に披露してくれていて、20代の自分にもそれなりの未来があってそれが平凡で退屈な日常を何とかやり過ごす原動力になっていたんだけど・・・
あれから20数年、ロビンウイリアムはこの世からいなくなって、自分には退屈な日常だけが残って、、、だからこそあの頃の思い出に浸りたかったのかな・・・
「君は悪くない」
「知っているよ」
「君は悪くない」
「知ってるってば!」
「君は悪くない!」
「やめてくれ!」
「君は悪くない」
「・・・」
みんなそーやって誰かに認められたい
でもそのためには自分をさらけ出して相手に、他人に、ぶつかるしかない・・・
「それが本当にお前のやりたいことなのか?」
自分の殻を破って初めて自分の本当にやりたいことすべきことがわかるんだ!
きっと20代の自分もこの作品を観てそー思ったはずなんだ、でも20数年後、退屈な日常しか自分には残されていないと本当にそんな風に思っているなら未だ自分の殻をぶち破れていないだけなんだ。
作品はもちろん何も変わってはいない。そして見ている自分も・・・なにも変わってはいない・・・これがはたして残酷なことなのか、実は自分にはわからない。だってロビンウイリアムと違って自分にはまだ朝日を気持ちいいと思える日常があるし、自転車で遠出して、あるいは筋トレして肉体を疲弊させて、または仕事終わりの達成感、解放感、それが気持ちよく思える日常が間違いなくあるわけだし、これが自分が20数年で手に入れたささやかなほんとにささやかな処世術なんですね。だから自分の殻を打ち破れないとしてもなんとかここまでこれたなら、逆に自分の殻の中で社会に繋がっていくやり方もアリなのではないでしょうか??
なんか全然まとまりがなくなってしまいましたが、この作品を20数年ぶりに見ながら、いや見終わった今そんなことをぼんやりと考えました。
作品については、少し価値観の違いでぶつかったロビンウイリアムと知人の大学教授が最後親しくしゃべりながら階段を上がっていくシーンがとても良かったです。
でもその大学教授がせっかく紹介してくれた会社を蹴ってしまうマットデイモンの行動は、サラリーマンの自分にとっては大学教授のこと思うと、なんだか・・・なんだけどマットにはそれ以上に価値あるものに出会ったわけだからそれはやはり単純にうらやましい!
あのラストシーンからエンディングロールはやはりサイコーでした!
ホント、まとまりがない文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。